みちのく旅行記

みちのくです!仕事の休暇はよく旅してます!

俺の人生の歩み

とは言っても大した話をする訳ではなく、自分がどのようにして今の人生に辿り着いてきたのかを語っていきたいだけである。

長話になるのと、少々残酷な話も入ってるので注意して下さい。

 

僕は幼稚園の頃から鉄道がものすごく大好きだったらしい、それは過去のアルバムを見てもよく分かる。東京駅の新幹線ホームで今は無い200系新幹線と一緒に撮った写真がたくさんあった。

それから小学生になって、俺は飛行機というのにすごく興味を沸かせていた。実はこの時鉄道の事が一時期冷めてた時でもあった。よく小学校では飛行機のモノマネしたりとか今では考えられない純粋な感じだったね。

でも小学生になってから1年後に運命が全部変わってしまった。

 

今の自分には父と弟、そして妹の4人家族で母親は小学校2年の時にこの世を去ってる。死因を言うと大腸ガンで発見した時にはもう手遅れだった。

あの時の自分は今ほど理解力がなくて、母親の死すら受け入れてなかったかもしれない。

成長して理解出来るようになった時に母親がもし今も生きていたらと考えた事を何度思った事か…。でも過酷だったのはここからだった。

 

母親の死後、まだ純粋な頃の俺は特に問題なかったんだが…小4にもなるとさすがに母親の死を受け入れていた。今更かよって思うだろうけど、当時の自分ではそこまで成長しないと理解出来ないやつだった。

父親からも「今更泣いてどうするんだよ」って言われた事がある、でもさ…ハッキリ言わせてもらうけど小学2年生で母親の死を受け入れろっていう事自体が難しいと僕は思う。

そして母親の死を受け入れていくうちに毎度何気ない会話でも俺はある言葉を相手から口に出されるとめっちゃ胸に突き刺さるような事があった。その言葉はもちろん「母親」とか「お母さん」とか「ママ」と言った言葉だ。多分当時の自分はそこから一時期狂い始めたんだと思う。毎日友人と何気ない会話でそんな言葉を聞いてただけに結構辛かったんかもしれない。聞くだけならね…。

そしてやっぱり事は起きてしまった。小4の夏頃だったはず…夏休みに入る前のちょっと前の日にいつもと友人数人で固まって何気ない会話を楽しんでた時に話題は夏休みをどう過ごすのかって話になった。普通に「家族と旅行!」とか「家でゲームする」とか「毎日寝ていたい」「おい毎日寝てたら太るぞw」って会話を多分してたと思う。そんな会話を俺に振られた時に「お前は夏休みどうするんだ?」って聞かれた。

「俺もゲームかな、毎日弟とスマブラDXに明け暮れてるかもなw」なんて返事をしてたはず、でもその後に「家族で旅行とか行かねえの?」って聞かれた。

まあ当時の家族の状況を説明すると、父は夜まで仕事、妹とはもはや決別状況で弟と学校終わった後に一緒にスマブラDXで何度も遊ぶ事以外楽しみがなかった。とても家族で旅行なんて雰囲気でもなかった。

「ちょっと無理だろうなー、父さん仕事だし」

大体の友人は母親が死んでた事を知ってたからこの返事だけで頷いてくれたんやけど、一人だけそうじゃない奴がいた。小4の新たなクラスになって初めて出来た友人だ。

「え?お前母さんは?父さんはダメでも母さんがいればどこか連れて行ってくれるだろ?」って。その言葉を聞いて正直めっちゃ怒りが湧いたのは事実だけど、悪気がないと思ってたからその場は凌いだ…けど次に出できた言葉が堪忍袋をぶちぎらせた。

「いやいやお母さんいないとかありえねえだろ、じゃなきゃ家族じゃねえだろ」

正直この後何が起きてたのかすら俺自身は覚えてない。ただ友人が言うのは、その言葉を聞いた瞬間に俺がその友人に対して蹴りを食らわせた後にさらに殴って、その後近くにいた先生に止められたって事だけ。

もちろんあの友人は悪気があった訳ではないと思ってる。ただ当時の俺はそれほど簡単な言葉でも怒りを湧き立たせるほど不安定な時期だったんだ。反抗期の怒りとはまた違って、その時の怒りは母親を侮辱されたという気持ちだったはず。

その後、殴ってしまった友人とは仲直りした訳でこちらの事情も理解してくれましたけど、それ以来ほどんど話さなくなりましたね。

正直言ってこの頃かなりグレてました。どんな感じかと言うと、勉強に対するやる気すら起きなくてあげくの果てには授業そのものは全て寝て過ごしてました。

ありえないって思いますよね?でもそれが現実です。冬なんてジャンバーを布団替わりにしてたくらいですからw

そのせいでハッキリ言えば、未だに知識は小5ほどのレベルです。漢字や数学、物理や社会はほぼ出来てないに等しいです。唯一の救いは体育だけでした、当時から運動神経はかなり良かった方なので体育だけはかなり真面目にやってました。

それから転機が訪れたのは小5年生になってからですね。

 

その当時、母親もいなかった為父が土日も仕事でいない事が多く、土日はよく祖母の家に預けられていました。

祖母の家はペットショップであり、よく犬と戯れていたりゲームをして遊んでいたのを今でも覚えています。

あ、ちなみにこの時ハマってたゲームはPS2の「エースコンバット5 ジ・アンサング・ウォー」という戦闘機で敵を撃墜していくストーリー性のゲームです。

言っても分からない方に例えて言うなら、有名なレースアニメ「頭文字D」で藤原文太の声優をやってる「石塚運昇」さんや、かの有名な「名探偵コナン」の毛利蘭の声優「山崎和佳奈」さん、今でもみなさんご存じの「NARUTO -ナルト-」 でうちはイタチ役の「石川英郎」さんなど他もたくさんの声優が集まったゲームなのです。正直言うとこのゲームで作られているストーリーは傑作かもしれませんね、自分の中でも神ゲーだと今でも思ってます。

話が逸れましたが、普段のように土日に祖母の家で遊んでたある日の事です。父が日曜日の夕方に迎えに来るはずだったのですが、急きょ来れない事になってしまったのです。次の日は自分も学校なのでどうしても家には帰らなきゃいけませんでした。

そこで祖母が提案したのは自分一人で電車を使って家に帰らせる方法でした。

しかし当時はまだ小5、さらに言うとこの時は鉄道の事より飛行機の方が好きだった自分にとってはちょっと難しい状況でした。路線や乗り換えも分からない中で無事に帰れるかどうかも微妙だったのです。何せこの時は切符の買い方すら分からなかったですからね。

しかし学校があるのでやむを得ず電車で帰る事にしました。これが現在鉄道旅を発展させる事になった大きな転機です。

本来、小学5年生が一人で鉄道を利用して一時間もかけて家に帰るような事は普通しません。と言うより、警察にでも見つかったら補導されてるでしょうね。

でも実際今に至るまで補導は一度もされてませんし、まさに奇跡だったと言えます。

最初は名古屋まで行ってからどの列車に乗ればいいのかめちゃめちゃ迷ってました。駅員さんに聞いて案内までしてもらってやっと家に辿り着く事が出来ました。

そしてこの事を機に自分の今後は変わっていきました。

この後も遊びに行く度帰りは自分一人で帰る日が多々続きまして、それからしばらく経った後の小5の正月頃でした。この時の事は忘れもしません、自分が新たに鉄道に目覚めたきっかけなのですから。

正月に祖母の家に遊びに行った時、祖母の家で飾ってた稲荷神社のお守りを返さなければいけなかったのですが、この時近くに稲荷神社は無くて少し遠い稲荷神社に返しに行く予定だったみたいです。

ところが祖母が「せっかくみちのく(本当は本名で呼ばれてます)が一人で帰れるようになって来たんだし、一人で豊川稲荷にお守り返しに行ってもらうか?」と提案してきたのです。

豊川稲荷神社は確かに有名な神社でしたが、その移動は家に帰るよりも数倍の距離でした。「一日フリー切符なら安くて済むし、稲荷神社行った後も好きな場所に行って来たらええよ」とかこの時の自分にはいろいろ理解出来なくて、しかしとりあえずお守りを豊川稲荷神社に返しに行く事にしました。理由はこの後の予定は家に帰るだけでただ暇だったからです。

自分はこの日、親と兄弟達とは別れて一人だけ祖母の家で泊まって早朝から豊川稲荷に向かう事にしたのです。

 

そして翌日、自分はお守りを持って祖母の家を出てた後、電車を使って豊川稲荷に向かいました。移動時間は2時間以上でかなり距離はありましたが、決して退屈な事はありませんでした。

それは電車から眺めてる景色が今まで家に帰る時に見てた景色とは全然違ったからです。家に帰る時はほとんど夕方だった上に住宅街の景色しか見れなかったのと、家に帰る前にはもう夜になってたので景色を楽しむ事がなかったのです。

でもこの時の朝焼けから見た景色は本当に最高でした。

そして景色を楽しんでたらあっという間に豊川稲荷に着いてました。初めてきた場所にとても興奮してたはずです、一人ではしゃいでいましたから。

最初はお守りを返す場所が分からなくて、しばらくしてからやっと場所が分かって返せました。お正月だった事もあって人がいっぱいいましたね。

お守りを返した後は祖母に言われたようにフリー切符の区間内を堪能する事にしました。この時利用してたのは愛知県の大手私鉄の「名古屋鉄道」です。

豊川稲荷駅から次は初めて豊橋にも来ました。名古屋ほどではないですけどかなり大きな町でその光景は今も全然変わってないですね。その時に豊橋駅で自分がいつも買う豊川稲荷弁当という稲荷寿司が入った弁当があったのです。安くて美味しかった為この豊川稲荷弁当はその後豊橋駅に訪れる度に必ず買ってました。。(詳しくはツイッターを)

その後は中部国際空港常滑、河和や内海、そして初めて一人で県外に飛び出して行った岐阜など、この日をさかえに人生はコロッと変わりました。

それからは祖母の家に遊びに行く度に、祖母がお金をくれて好きな所に行って来いと言ってくれてました。多分総額にすると50万近くは超えてますねw

小5で初めて一人で電車に乗り、そして小6前になって初めて一人で県外、それから自分はかなり変わったかと思います。小6になってからは何故か普通に勉強してましたし、まあそれでも多少さぼり気味と言うか…小5の授業をおろそかにしたせいで知識が追いついていけなかったのですよ。

それでも不真面目な頃に比べてはマシだったと思います。

その後も鉄道の旅に飽きなくなった自分は中学になるとついに東海3県(愛知、岐阜、三重)に飛び出して行きました。JRを使って三重の伊勢神宮や鳥羽に行ったり、岐阜の下呂温泉などにも次々と行くようにして行動範囲を広くしたのです。

ただし学校生活はあまりにも深刻でした。中一の勉強に全くついていけなかったのです。そのせいで回りからは馬鹿にされ、挙句の果てには喧嘩っ早くなったりして今考えると本当にやばい人生を送ってた気がします。

それでも休日はいつものように鉄道旅を楽しんでましたし、今考えれば鉄道旅が無ければもっとグレた性格になってました。

 

ちなみにツイッターにいた人で自分とかなり前から関わってる人は俺がどうしてあんな怒り狂うとそんな性格なのか?と思った人は、実はこの中学時代の喧嘩っ早い性格がまだ抜け切れてないからでもあり。あとあくどいやり方をするのもこのせいとだけ言っておく。

それでも最近は落ち着いてる方だし、本気で怒る事は今の所ないし。ただ以前まで仕事のストレスもあって怒りっぽかったのはあるけどね。

 

そんな中でも行動範囲はどんどん伸びてきた。ある日は親が旅行に行くが自分は部活があった為に後から追いかける為にしらさぎで初めて小松へ向かった事もあるし、この時はさらに長野の方にも少しずつ手を出していた。

そんなグレた性格でも何とか中3まで過ごしてきたが、実は中2の時に鉄道旅を教えてくた祖母が亡くなった事が一番痛かった。ショックが大きすぎてほぼ立ち直れない状況だった。でも中2の時のクラスのみんなは祖母の死で立ち直れなかった俺を励ましてくれた。そのおかげもあって勉強は馬鹿だけどクラスには馴染む事が出来た。

中3の人生も同様、ただ祖母が亡くなった事で鉄道旅はしばらく出来なくなってしまった。今までは祖母がいてくれたおかげて何とか鉄道旅が出来たからである。

もしこの時にクラスに馴染めてなかったら、間違いなく今の自分はここで悪い方向に変わってしまったはずだ。

 

そしてこの後進学するのだが、実は進学の時のちょっとした裏話をここで教えておこう。

中学3年生になって進学の学校決めをしてる時に、自分の成績では正直行ける学校がかなり少なかった。

その中で一つの学校に目が止まった、それが俺が通った工業高校だった。

しかし偏差値としてもかなり厳しい上に推薦ももらえないって保護者面談の時に言われたらしい。正直諦めモードでその工業高校の見学と保護者相談会に参加した。

その工業高校は中学3年生の俺にとって、人生をやり直せる機会かもしれないと思ったくらいワクワクした学校だった。しかし元々この工業高校も偏差値が高い上に推薦までもらえないから正直受験するのは絶望的だった。

でもこの時、学校見学してた俺とは別で父親は工業高校の先生…その先生は後に俺の高1の学年主任なった先生だったんだが、その先生と個人面談してたらしい。

父親から聞くには「息子はこの学校一筋でどうしても入りたそうにしてるみたいなのですけど、勉強はほとんど出来ない上に偏差値も微妙に足りてません。さらに中学の先生からも推薦は厳しいと言われてます」みたいな事をその時の工業高校の先生に

話したらしい。

そしたら先生からこう言われたらしい。「でしたらその学校名と息子さんのお名前を教えて下さい。うちからも推薦をしてここを受けて頂けるように必ずしますよ」と。

父親は何を言ってるんだこの人って思ったらしいけど、とりあえずその場は言う通りにして高校の先生に中学の学校名と俺の名前を教えたらしい。

そして見学が終わって二週間くらいした時、俺は帰り際に突然校長室に呼び出された。

訳の分からない状況で校長室に入ると担任と校長先生がいたのだが、そこで聞いた話は「今日君が見学を受けに行った高校から君を推薦をして我が校を受験させてほしいと連絡があったが、君はあの高校一筋で受験する気はあるか?」と校長から尋ねられた。

俺は迷う事無く「正直今の自分がよくない状況なのは分かってますが、あの工業高校は自分自身を変えるチャンスだと思ってます。あの学校以外に受ける学校は自分にはありません」と伝えた。

そして翌日、見学に行った工業高校を推薦の受験という形で掴み取る事が出来た。

正直奇跡の連発だった。もしあ工業高校を選んでなかったら、そもそも高校に行ってたかどうかも分からなかった。

しかし推薦で受験が出来るとはいえ、それでも英語と社会と理科の教科が抜けただけで、国語と数学、さらに面接がある事には変わりなかった。

だがしかし、またもやミラクルが起きた…。

受験当日、席に座っていよいよ受験の幕が開けて、問題用紙を開いた瞬間…俺はその問題を見てついついこうつぶやいてしまった。

「さ…算数…?」って。

簡単に説明すると、数学も算数も言い方が変わってるだけでハッキリ言えば言葉の意味は両方同じだ。ただ小学校では言いやすいように算数と言ってるだけで実際は数学をやってるだけ。でもイメージとしてはやはり算数と聞くと小学校の問題と思う人はいっぱいいるだろう。

つまりそういう事…問題用紙に書いてあった問題は全て算数のような問題ばかり…ハッキリ言うと、「こんな問題で逆に落ちるのがおかしすぎる」と心の中で呟いていた。足し算や掛け算はもちろん、多少図形の問題が出てきたが…9割が小学生の問題だった事を俺は覚えてる。そして国語、こちらもやはり小学生並みの問題しかない。簡単な感じの読み書きしかなく、下手したら満点取ったかもしれないって当時は思ってた。

でも問題は出来たとしても、こういう問題しか出て来ないという事は国語や数学よりも面接が一番の難関って事を予測してた。結果はまさにその通りだったけどね。

順番待ちをしてる時、面接中の部屋から面接官がすごい数の質問をぶつけてくる声が聞こえていたからだ。面接時間にして一人辺りだいたい15分から20分、かなり長かった。

でも実は、自分の面接時間だけはめっちゃ短かった。多分5分くらいじゃなかったかな…。しかも言うと、この時の面接官が父親と個人面談した学年主任だったとは知らなかった…。

質問内容としては「志望動機」「入りたい部活」「好きな趣味」「雑談」「自己PR」くらいしかなかった。明らかに質問内容が少なすぎる…正直もうダメかと思ってました。

それから数日後に高校から合否通知書が来ていて、中を開けると…なんと「合格」の文字がありました。その嬉しさは計り知れないくらいだったと思います、家中を駆け回ってた記憶だけが存在してます((

しかし何故合格したのかが理解出来ませんでしたが、この後に僕らの学年主任に聞いたところ、なんと見学の時に自分と学年主任が実は面談してた事が合格に繋がった意図らしい。確かに見学の際に先生との個人面談もあったが、その時の相手がまさかの学年主任の先生だったとは知らなかったのだ。自分はただ学校がすごい事しか考えてなくて先生の顔などを覚える余裕がなかった。なので、面接の時に本来聞く内容は以前に個人面談の時に聞いていたから質問内容が少なかっただけであったらしい。なので多く質問されてた人達は見学に参加してなく受験してた人達だった。偶然にも自分の列は見学してた生徒がいなかった為に自分が面接時間が長いと勘違いしてしまったらしい。

他の場所では見学に来た生徒達はそこまで面接に時間がかかってない事も後で高校の友人に聞いたら分かったし。

何がともあれ、無事に受験に合格してついに俺は高校一年生になった。でもこの時、こうも思った。もし母親と祖母が生きてたらどんなに喜んでくれたのかな?って。

 

そして高校一年生、この時に俺の運命は大きく変わった。俺は入学した高校の部活で最初は鉄道模型部という鉄道が趣味の人達が集まる部活があった。最初のクラスで同じ部活を見に行く人がいるかどうかも分からない中でいろいろ迷ってた時に、俺の席の後ろの奴がなんとJR貨物のクリアファイルを持ってたので一瞬ビクリとしたのを今でも覚えてる。さらに他にも同士はいた、しかも自分のクラスだけでなんと5人も。

そのうちの一人は今でも俺と共に旅をしたり、初の北海道旅行と四国旅行を一緒に成し遂げた相棒のMr.Iと言っておこう。

 

しかしここで少し問題が起きる、実は電気工事士の授業で遅くなった時の帰りに下駄箱のロッカーである先輩に引き留められた。それが陸上ホッケー部の先輩だった人。

俺は言われるがままにホッケー部に引き留められて少し練習をやらされた、でも正直悪い気はしなかった。元々体育しか取り柄がない俺にとって知らないスポーツをやるのは面白かったからだ。しかし何故ホッケー部に勧誘されたかと言うと、人数が少ない事。

まあ、ほとんど知られないスポーツには入る人も少ないのは分かっていたがその時は試合が出来る人数にすら到達してなかったらしい。

俺が入る事で何とかギリギリ試合の人数には到達するみたいだが、この時正直に言えば鉄道研究部に既に入部しており、仮にホッケー部に入るとなれば掛け持ちする事になる。かと言って鉄道研究部をやめる事は流石に出来ないので、俺はこの時のホッケー部顧問にこう伝えた。

「ホッケー部参加は鉄道研究部の部活動が無い日と終了した時間以降、さらに掛け持ちの許可はホッケーの顧問から鉄道研究部の顧問に伝えて許可を取ってください。それでOKでしたら今後新人が入って来るまで自分が選手としてやっていきます」って。

結果はOKだったらしいが、これも卒業前に鉄研の顧問に聞いたら「そんな許可出した覚えないぞ」と、まさにホッケーの顧問の独断でやらかしてた訳だった。

それ以降、俺は鉄研部の部活が終わった後はホッケー部と合流して練習に励んでいた。

この時のポジションはディフェンスの左サイドが主なポジションだった。

でもこの時、親からは結構反発されたね。二つも部活に入るのか?とか練習行けるのか?とかね。でも結果的に俺は条件が満たせる最後まで付き合ったけどね。

 

それから半年後、今度はホッケー部の遠征で結構大変だった。猛暑で結構苦しんでいろいろ大変な時でも久しぶりに充実したスポーツ人生だった。中学の頃はサッカー部だったが、ホッケーも似たような部分があって俺に合う部分も多々あったんだ。でも一つ言わせてもらうとしたら、スティックの使い方がイマイチ掴めなかった事。

それでも何度も練習試合をしては経験を積んで、その時の俺はある事が得意だった。

反射神経を生かし相手のパスをカットして前線に突撃するカウンター。自分はそのカウンターが結構得意だった。当時の身長は173cmとか結構大きいおかげもあってパワーと反射神経だけは自信があったおかげで、ボールのコントロールはまだ劣っていてもディフェンスから前線にボールを運んで後は先輩に繋いで任せるといった事くらいしかできなかった。でもそのおかげでいろいろ助かった面もあれば勝てた時もあった。

そして電気工事士の勉強が終わって今度は文化祭が近づいてきた。

鉄研部では毎年鉄道の模型を使ってレイアウト…つまり建物や山などを使ったり作ったりして文化祭で披露する行事があった。

そして最初の文化祭の日、最初はゴタゴタとトラブルが連発したけど…一般開放の日には俺が車掌の恰好をして場を盛り上げたりあらゆる部屋に向かって鉄道研究部の存在をさらしたりと、なかなか面白い日々だった。

しかし大きな変化が訪れたのは文化祭を終えて3年生の先輩が引退した後だった。鉄研部の2年に俺と同じ苗字の先輩がいるが、その人がなんともまあ…すごい人だった。それは秋の紅葉の季節、この季節に何と今は亡きJR東海の元特急あさぎりで使われていた371系が名古屋から中央線の奈良井駅まで中山道トレインとして走る事になっていたのだ。そして先輩がこの列車に乗らないかと誘って来たのだが、自分はお金もなくてとても行ける状況ではなかったのだが、先輩がなんと奢ってくれるという事で少し申し訳なく行く事にした。

そして当日、渡された切符を見ると…何とグリーン車の座席になっていたのだ。371系には中間に二階建てのグリーン車があるのだが、奢るの領域を遥かに超えていた。そしてこれが初のグリーン車デビューとなった。

正直乗り心地は最高でした、初めてのグリーン車に興奮しまくりでいろいろとワクワクしてました。

そして初めて来た奈良井という町、ここは宿場町として有名な場所であり、中山道の道中でもある場所。古い町並みが心地よくてすごく大好きな場所の一つでもあった。

そんな楽しい時間もあっという間に過ぎてしまい、久しぶりに大きな旅を経験出来た。そしてこれが新たに鉄道旅を加速させる事になった。

ホッケー部の練習がない日には先輩が京都や滋賀に連れていってくれたり、さらには東京や埼玉にも連れていってくれた。もはや贅沢としか言いようがなかった。でももし先輩があの時自分を連れ出してくれなかったら、自分は今鉄道旅をしていたかどうかも分からない。

 

そして確か冬だった気がするが、俺とMr.Iともう一人の三人で北陸、信越経由の鉄道旅行に向かった。この時に北陸にも乗ったしムーンライトえちごにも乗ったな。最後は静岡のロングシートにやられて大変だったけどな。

 

そして冬、俺は新たに来たホッケー部の部員の育成に専念していた。もちろん鉄研部も掛け持ちしてたが、この年はホッケー部の先輩が最後に活躍出来る日。ある静岡で行われた小さなホッケーの大会に参加した、そしてなんとベスト3に入ったのだ。

先輩が攻撃して後輩の自分らが徹底的に守るという個人を活かしたプレーがこの時上手くいって結果を出せたのだ。正直俺はこの時嬉しかった、最高の出来事だったとも言える。

そしてこれが俺が活躍出来るホッケーの最後の年でもあった。

春が来て高校二年生になると、新たな新入部員も続々と入ってきた。人数はそこまででもないが、試合をやるには十分だった。

俺は今年の夏で退く形かなと思った。

 

高校二年生での鉄道研究部は一年の頃とは違っていろいろと動くのが早かった。次の文化祭のレイアウトをどうするのかを春から既に決めにかかっていたからだ。そしてこの時、俺は鉄道模型を全て整備するスキルも身に着けた。壊れたモーターや錆びた導線を磨くなど自分で壊れた模型をもう一度動かしてやるって気持ちだった。

そのおかげで部室の模型を持ち帰っては家で整備と点検して部室に返しての繰り返しだった。ところがこの時、顧問がある先生から引き取った模型があったのだが…その模型は古すぎてとてもまともに使える状況じゃなかった。そこで俺が新たに車両の塗装の改造、そして部品の補修を手掛けた結果…なんかとんでもないやつが出来上がったのだが、それはいずれツイッターでお見せしましょう。

で、その模型は完成度はかなり高い方だったが、部室に置いていてもだれも使わないと言うから、仕方なく自分が引き取る事にした。ちなみにその模型は381系国鉄色485系国鉄色です。ちなみに今でも家で大切に保管しており、たまに走らせたりしてます。

 

そして夏、ホッケーで先輩の最後の晴れ舞台…県大会の時期だった。しかし初戦で敗退…原因は一年生の錬度が不足してた事、そして控えには2年も3年もいなかった事と、最初に試合に出たのが全員2年生と3年生だった事。終盤は完全に疲労困憊の為、前線の先輩方が上手く攻められず、ディフェンスの自分らは攻めてくる相手が強すぎて守りきれなかった事。しかしこれで自分のチームに何の課題があるのかが分かった。先輩には申し訳なかったけど、これで自分のチームは強くなれるって確信があった。

でも自分が参加出来たのはここまで。二年の夏の時点でホッケー部の人数は十分に足りていた事、そして鉄研部を掛け持ちしてる事であまり練習に参加出来てない俺の事を良く思わない一年生もいる事を考えたらここが引き際だった。

俺は夏以降から徐々に練習から退く形で秋の序盤には完全にホッケー部員として引退した。

正直あのまま続けたいとも思ったが、鉄研部がある以上はこちらを優先させたい意志の方が強かったので仕方なかった。でもあのホッケー部の経験は決して無駄じゃない、おかげで何事にも迷わず判断出来るようになったのも事実だったから。

 

そして文化祭が近づくにつれて、この時のレイアウトはいろいろと面白い形を用意してた。長い鉄橋を利用した川や、山に町…そしてその面積をさらに広くしたりといろいろな事がたくさん試された。そして文化祭での披露で、僕らは各自あらゆる服装の鉄道員になった。この時鉄道の制服やら車掌マイクやらさまざまな物を用意しておき、それを一般公開の日に一部の人達で試したのだ。

それが結構は好評を受けた、おかげ様で一般客は「車掌さんだー!」とか「なんだあの人?!」みたいな反応で面白かった。

そしてこの日を終えて先輩達とはもうお別れになってしまった。

 

冬になってから俺は鉄道研究部として車両の整備にしか費やす時間はなかった。相棒のMr.Iは部長になって車両の走行試験を手伝ってもらうなどいろいろ試す中で、ついに3年生になる前の俺たちが次の文化祭でどんなレイアウトに仕上げるかが問題だった。

そして俺がある日、部室にある模型雑誌を見ていてある事に気づいた。それはイルミネーション、周囲を光で照らして綺麗に見せる事。俺はそれに見惚れてMr.Iに具申した。

「次の文化祭、建物とか光らせてみないか?」

 

二度目の春が来て高校三年生、新入部員も入ってきたところでこの時俺は新たな事も試そうと思った。それが雪景色…ある模型店に行ったときスノーパウダーというのを見つけてふと思い浮かんだ。部屋を暗くしてライトアップしたら絶対綺麗だよなって。

この時からもう始まってたのかもな。俺は夏前にどんな形にするのかをMr.Iとまとめつつ、ライトアップのLEDはどれを使うのかも悩んでいた。Mr.Iは逆に今度は完璧な山を作りたいという案もあったので、この時点で次の文化祭の答えは決まった。

俺がライトアップと雪景色のレイアウトを作り、Mr.Iは最高の山を作り出す。他の部分…たとえば駅とか建物は他の人にでも出来る事だったのである程度の人達はそっちをやってもらう事にした。

そしてここからが長かった。

 

夏に板を使って全体の組み付けが始まる、レールが通る場所を決めて…そこから今度はレールを板に釘で張り付ける。その後は板ごとに分解して各板に飾り付ける担当者を決め、そして部室に持ち帰りレイアウトを行う。これがすごく大変だった。この時は新たに路面軌道も増やした事でみんな困惑してたけど、これが思った以上に良かった事は後で分かった。

LEDのはんだ付けは後輩に任せて俺はライトをセットする建物に光が反射しやすいようアルミ袋を付けたりレールにスノーパウダーが乗らないようにテープを付けたりと大忙しだった。

でも何だかんだで最後は完成、100%とはいかないけど雪景色には十分な飾り付けだった。そしてMr.Iが作った山もすばらしい山に仕上がっていた。

 

そして待ちに待った文化祭は初日は温存する形でいろいろ試運転を重ねた。実はこの時LEDに送る電気が足りないって事も判明したから電源装置を二台投入してギリギリ光らせる事が出来た。もしこれが本番だったらイルミネーションは失敗だったかもしれない。

そして一般開放の日、序盤は後輩達に任せてしばらくは車掌姿でいろいろな場所を見て回った。そして終盤につれていよいよフィナーレ、俺は窓を段ボールで覆って完璧とは言えないけど十分部屋を暗くした。そしてLEDに繋いだ電源装置をONにした、その光景は素晴らしいものだった。見事にイルミネーションは成功した上に客からも「すごい!」や「綺麗」と良い評判だった。でもこれだけは思った、もう二度とイルミネーションと雪景色はやめようって((

なんだかんだで最後はいいフィナーレを迎えて俺もMr.Iも鉄道研究部を引退…でも本来あの場所にあるべきはずの俺が引き取った鉄道模型は今でも家にあるからこれを見る度にあの文化祭の成功を思い出す。

 

そして冬が来て俺は就職先が決まった。どこかは言えないが誇りある仕事の場所だった。

そして卒業前、俺は学生最後の思い出としてMr.Iを呼び出してこう言った。「卒業旅行に北海道行こうぜ!!」と。

 

卒業式を終えて暇な時がある時、俺とMr.Iは北海道へ向かった。長野から新潟、そして秋田、青森、遠回りを駆使して札幌まで向かった。行った場所はそれほど多くもなかったけど、すごく楽しかったのを今でも覚えてる。そして関東からは念願のロマンスカーにも乗れたので、これが本当に素晴らしかった。

そしてそのまま俺たちは高校を卒業してそれぞれの道に歩んだ。

 

それから一年後、俺は再びMr.Iに冬にまた北海道行こうぜと提案。Mr.Iもいつものように承諾してくれた。

向かうは真冬の最北端「宗谷岬」、そして結果的に地獄を見たのだったw

吹雪だし体感温度が尋常じゃないし、なにより真冬に来る場所じゃねぇw俺たちは馬鹿をしたのだった。

結果的にあっさり退散、すぐに札幌まで引き返した。他にも釧路とか根室とかにも行ってたが、これと言った観光はしてなかったし、いつかもう一度行きたいところだな。

 

そして現在に至る。

思えば俺の人生は波乱と遊びのオンパレードだったかもしれない。小さい頃は母親や祖母を亡くして辛い思いをして、でもその一方で高校で相棒が出来て今も一緒に旅をしてる。多分今の相棒は一緒に遊ぶだけじゃなくて、心の支えになる相手でもあるかな。

俺の人生は今も波乱ばかり。今度6月から新たな会社へ勤める為に一人暮らしを始める。そうなればきっと大変な時期になるのはほぼ確定だろうな。

それでも今は俺を好きと言ってくれる人もいるし、そいつが今の俺を良くしようとしてくれてもいる。

もちろん今後も俺は取り乱して嫌な事だって言うかもしれない。でも俺は最終的に誰にでも頼られる立派な人になるのが目標だな、まだまだ先の話にはなるけどね。

そんな訳で、これが俺の人生の道のりでした。